アントン・ブルックナー(Anton Josef Bruckner)の生涯(略歴)
アントン・ブルックナーは、1824年9月4日、小学校教員兼オルガン奏者を父として、オーストリアの片田舎アンスフェルデンで生まれる。13才より聖フロリアン修道院の少年聖歌隊で歌い、音楽に親しんだ。
1841年に小学校教員になり、このころから作曲を独習し始める。その後1845年から聖フロリアン修道院の教師兼オルガン奏者、1855年からリンツ大聖堂のオルガン奏者と、音楽的研鑽を積んでいく。この間ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、オットー・キッツラーに管弦楽法を学んだ。
1863年ごろからリヒャルト・ヴァーグナーの音楽に傾倒、その音楽を研究するようになる。そしてまもなく最初の作品「ミサ曲ニ短調」を書いた。そして1868年には、ゼヒターの後任としてヴィーン音楽院の教授(音楽理論)に就任した。
この時以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。しかしこれらの交響曲は後述の不当な批判などもあって十分に評価されず「野蛮」で「無意味である」とされることが多かった。
1875年には、ヴィーン大学講師(ただし無給)に就任。
当時、ヴァーグナーの音楽を好む人々とヨハネス・ブラームスの音楽を好む人々の間には深い確執があった。ブルックナーは、ヴァーグナーに交響曲第3番を献呈したことで、ブラームス擁護派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、執拗でときに不当な批判を浴びせられ続けた。その結果、ハンスリックの影響の強いヴィーンにおいて、ブルックナーの作品は積極的な支持を得ることができなかった。
ブルックナーの支持者には、アルトゥール・ニキシュやフランツ・シャルクなどの大物指揮者がいて、演奏会開催の手助けや作品の改訂などを行った。シャルクの改訂作業は、当時の聴衆の嗜好に合わせて、長大な曲を聴きやすくしようと行われたが、作曲者自身の度重なる作品への改訂も加わり、ブルックナーの交響曲における版の複雑さを増す一因となった。
彼は常に作曲か、自作の改訂を行っていた。日記も几帳面につけていたが、それを読むと、ひとつの交響曲の作曲を終えるとわずか数日後に新しい交響曲に取り組んでいたことがわかる。
自作が好評を博したときは有頂天で譜面に向かい、不評を買うと絶望に沈みながらもペンを休ませることはなかった。
ブルックナーの作品は、習作も含めて11曲の交響曲が中核をなす。他は多数のモテット、数十曲の世俗合唱曲を除けばごく少なく、数曲の宗教的合唱作品、弦楽五楽重奏や四重奏曲、ピアノ曲、吹奏楽作品などが現存している。非常にロマン的ともいえる交響曲と異なり、ブルックナーの合唱作品は保守的で、対位法のスタイルを保っている。
ブルックナーは当時最も腕の立つオルガン奏者であり、1869年にフランスで、そして1871年にイングランドで観衆に感銘を与えた。そして、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール、クリスタル宮の新しいヘンリー・ウィリス・オルガンで、6回の演奏会を開いた。彼がオルガンのために書いた作品は少ないが、その素晴らしい即興演奏は、しばしば交響曲のアイデアに活かされた。
ブルックナーがウィーン大学で音楽理論を教えた学生の1人がハンス・ロットであり、講義にはグスタフ・マーラーも出席していた。その時のマーラーは交響曲第3番の初演失敗に悩む作曲者に「第一楽章の有機的な結合や、全曲を一貫する精神の気高さは全く新しいもので稀に見る音楽作品です。これのどこに改訂の必要があるのでしょう。」と進言し、第3交響曲のピアノ連弾版を作成する程のブルックナー信望者であった。しかしマーラーは後にブルックナーを「ブルックナーの優れた音楽性も感じさせたが、あまり良いものとは言えず完成からは程遠いものだった。彼の作曲した交響曲は良い作品であることは確かだが、包容する内容に比べ長すぎ、楽器法も部分的に問題がある。」と評しており、交響曲第4番と第5番では独自の改訂を施している。
ブルックナーは1896年10月11日、ヴィーンで72年の生涯を閉じた。
死の直前まで筆を進め、3楽章まで出来上がっていたにもかかわらず、終楽章を残して未完に終わった交響曲第9番は、死後6年以上経った1903年2月11日にヴィーンで初演された。
彼は生涯を通じて非常に信心深いローマ・カトリック教徒であった。
また、晩年に至るまで多くの若い女性に求婚したが、結婚することはなかった
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